「今日は子どもの日なんだよね?Yちゃんの日なんだよね?」
という言葉が胸に刺さる。なんとかなだめながら仕事に目処をつけ、老猫の世話をし、実家を後にした今年のこどもの日。
この日だけではない。ゴールデンウィークは、実家以外どこにも連れて行ってあげられなかった。ちょうど仕事が立て込んでいたし、老猫のシッターもしていたので遠出もできなかった。
それでも連休最後の夜、親子三人で、居間でゲームに興じた。我が家で恒例の「マンカラ」というボードゲームだ。
ルールは単純だが奥が深く、透明感のある青や琥珀色のガラス玉が、キラキラと手の中で光る様子も楽しくて、すっかりこの遊びのとりこになった。
「マンカラしようか!」
夕食後、少し時間ができたときの、わが家の合言葉。親子のあいだに自然に生まれたこのひと言が、なんともいえず、あたたかい。
「マンカラ」は、紀元前4000年まで遡るともいわれる、アフリカ発祥の一種のボードゲーム。遠い異国で生まれ、長い時を超えて今、この日本の小さな家族の記憶をささやかに刻んでいる。
娘が勝利を飾った。
「またやろうね!」と目を輝かせ、喜びを噛み締めるようにおどけた顔で目を細めた。ほんの少しの時間だったけれど、私は救われた気がした。
今日は今日で、家事と仕事の手を止めて、家族三人でトランプを囲む。
神経衰弱。
記憶力が問われるこのゲームで、娘は拗ねることもなく、冷静にカードを裏返していく。終わったとき、手札の数は私と同じだった。
手を差し出して、娘と私は笑顔でそっと握手を交わした。
思えば、以前は少しでも負け始めるとすぐに拗ねたり、勝っている人とグループになろうと企んでいた。今では、駆け引きも、勝ち負けも、それなりに楽しんでいる。
マンカラでもそうだった。石の数を読み、先を考え、私や夫と互角に勝負する。大人と対等に遊べるようになっていることに、はっとした。
ゲームの中では、ルールを伝えたり、順番を教えたり、時に勝ち方のコツを伝えることもある。
けれど気づけば、こちらが教わっていることもある。どうやったら楽しくなるのか。どうやったら誰かを応援できるのか。遊びという枠のなかで、親子はよくしゃべり、笑い、讃えあい、負けを楽しみ、ぶつかり、学び合う。
遊び終わると、それぞれが寝る支度を始める中、私はもう一度パソコンに向かう。
「先に寝るね、早くお布団に来てね」
娘が、就寝の挨拶とともに、やさしく声をかけてくれた。綿菓子のような思いやりを届けに来てくれたその手は、戸をキュッと握っている。一緒にお布団に入りたい気持ちに耐えている。きっと、遊んでくれたからこれくらいは平気だよ、ということなのだろう。幼子のいじらしさ、底なしの尊さを胸に抱いて、仕事が終わるまでキーボードを鳴らした。