現代造佛所私記 No.579「工房からメールの返信がないという方へ(後編)」

九月上旬に、仏像製作のお問い合わせをくださいました御方へ。

HPのフォームからご連絡いただきありがとうございました。何度か返信していますが、どうも届いていないようです。

今のところ、メールしか連絡手段がなく、ご相談にお答えしたいのですが他にご連絡の術がありません。

もしこのコラムをご覧になりましたら、迷惑メールフォルダに当工房からのメールが振り分けられていないか、ご確認いただけましたら幸いです。

メールが見当たらないようでしたら、お電話番号をお知らせいただけましたら、こちらからご連絡差し上げます。

どうぞよろしくお願いいたします。

(続き)今でも手元に置いている『餓鬼事経』や『典座教訓』も、何度も繰り返し読んだ。

自分の心の中にもある餓鬼の心や願いを観じながら、お釈迦様や阿羅漢、祖師たちの言葉に、心を洗われながら。

なぜ夢中になってそんなことをしていたのかは、本当のところ、よくわからない。

看護師として、看取りを何度も経験させてもらったことも、無関係ではなかったのだと思う。幼い頃、お遍路さんをいつも見送っていたことも。

絶対に死ぬ身の上と知り、すべて移り変わってゆく根無し草のような人生を歩みながら、当時は仏教の言葉が、心に染みて染みて仕方がなかった。

そんな経緯もあって、今、夫とは少し違う角度から、仏像を見ているところがある。

「この仏像の姿の意味は」とキーボードを叩いていると、お釈迦様の過去世や、餓鬼界に住むものたち、阿羅漢や祖師たちの物語が、鮮やかに立ち昇ってくる。

と言っても、それによって説明が大きく変わるということはない。

だけど、その意識は多少なりとも、文字に乗るのではないかと思っている。

吉田仏師は、造像の技術とは別に、形を超えたところにある「作り手の意識」によって、観照が変わるのだと、そんなことをぽろっと言ったりする。

私も、たとえパソコンの画面に表示された文字列であっても、印刷されたフォントであっても、書き手の意識は表れるのではないかと思っている。

ジャータカを書いた人、その物語を伝え、訳した人。

その人たちの意識が、幾重にも重なって、あの忘れられない読書体験になったのかもしれない。

届かないメールのことに気を揉みながら、そんなことを、とりとめもなく考えた。