現代造佛所私記 No.549「ノーベル賞とチョコ(5) 無用の用 後編」

私は20代の頃、当時住んでいたマンションの1階の喫茶店で、空になったグラスを眺めながら、ふとこんなことを考えたことがある。

「あれ……? この空っぽの状態って、もしかしてすごくない?」

何がきっかけだったのかは覚えていないけれども、当時は看護師として働きながら、仕事のことで悩んでいた時期でもあった。

そんな時に、「何もない空間に、グラスとしての価値がある」というようなことを、たまたま発見したのだ。

当たり前といえば当たり前のことだが、当時の私には、目の覚めるような発見だった。

そして、それを「わかったような意味づけをしたくない、尊いもの」として、心の奥にしまった。

荘子のいう「無用の用」。

湯川秀樹博士のいう「Redundancy」。

そして、20代の私が薄暗い喫茶店で見つめていた「空のグラス」。

何十年も離れた場所にあった三つのものが、北川先生のお話を聞いたことで、ぎゅっと一つに重なった。

社会の価値観は、ちょっとした時代の変化にも影響を受ける。

そんな不確かなものに翻弄されて生きることは、なんとも不毛なことだと思う。

もちろん、流行を楽しむのは悪いことではない。新しいものに心を動かされたり、夢中になったりすることも、人生の楽しみの一つである。

だけど、いつひっくり返るかわからない価値観に、自分の人生そのものを預けてしまうのは、ちょっと危ういと思う。

結局のところ、自分が何を大切にするのかは、自分で決めていくしかないのだろう。

生まれ落ちた瞬間にはじまった人生を空っぽの器とする。そこに何を注いでいくか。

コントロールできないことの方が多いかもしれないけれど、どこかに少しばかりの余白や遊びを残しておきたい。

そのリダンダンシー(Redundancy、余剰)にこそ、自由がある。

20代のあの日、喫茶店で見つめていた「空のグラス」の記憶が、30年を経て急にその存在感を増している。