私は20代の頃、当時住んでいたマンションの1階の喫茶店で、空になったグラスを眺めながら、ふとこんなことを考えたことがある。
「あれ……? この空っぽの状態って、もしかしてすごくない?」
何がきっかけだったのかは覚えていないけれども、当時は看護師として働きながら、仕事のことで悩んでいた時期でもあった。
そんな時に、「何もない空間に、グラスとしての価値がある」というようなことを、たまたま発見したのだ。
当たり前といえば当たり前のことだが、当時の私には、目の覚めるような発見だった。
そして、それを「わかったような意味づけをしたくない、尊いもの」として、心の奥にしまった。
荘子のいう「無用の用」。
湯川秀樹博士のいう「Redundancy」。
そして、20代の私が薄暗い喫茶店で見つめていた「空のグラス」。
何十年も離れた場所にあった三つのものが、北川先生のお話を聞いたことで、ぎゅっと一つに重なった。
社会の価値観は、ちょっとした時代の変化にも影響を受ける。
そんな不確かなものに翻弄されて生きることは、なんとも不毛なことだと思う。
もちろん、流行を楽しむのは悪いことではない。新しいものに心を動かされたり、夢中になったりすることも、人生の楽しみの一つである。
だけど、いつひっくり返るかわからない価値観に、自分の人生そのものを預けてしまうのは、ちょっと危ういと思う。
結局のところ、自分が何を大切にするのかは、自分で決めていくしかないのだろう。
生まれ落ちた瞬間にはじまった人生を空っぽの器とする。そこに何を注いでいくか。
コントロールできないことの方が多いかもしれないけれど、どこかに少しばかりの余白や遊びを残しておきたい。
そのリダンダンシー(Redundancy、余剰)にこそ、自由がある。
20代のあの日、喫茶店で見つめていた「空のグラス」の記憶が、30年を経て急にその存在感を増している。


