「だめだよ!」「食べたらいかん!」
周りの大人から一斉に制され、娘は驚いて目を見開いた。
いつものように、お菓子を手に「これ、食べていい?」と許諾を得ようとしただけである。
ところが、慌てる大人たちの真剣な顔に、娘は硬直した。そして、いささか不服そうな顔で、手にしていたお菓子を白い紙袋にしまった。
それは、金色の包みに入ったメダル状のチョコレート。表面には、アルフレッド・ノーベルの横顔が刻まれている。
そう、ノーベル賞のメダルを模した、ノーベル賞博物館(Nobel Prize Museum)の名物チョコレートである。
今日は、2025年にノーベル化学賞を受賞された、京都大学特別教授・北川進先生の特別イベント。娘は、自由研究の発表者としてご招待いただいた。
その舞台上で、北川先生ご本人の手から、サイン入りのメダルチョコをいただいたのである。
チョコレートが大好きな娘は、いただいた後の休憩時間になると、早速それを食べようとした。
もちろん、食べていいものだと思っている。
とはいえ、そこはいつもの娘で、「これ、食べていい?」と両親に一応ことわりを入れた。
それが、両親だけでなく、祖母、さらには見知らぬおじさんにまで止められたのだから、娘としてはたまったものではない。
MOF? 分子? ナノサイズ?
北川先生のご講演も、娘にとっては聞いたことのない言葉ばかりだったという。
それでも、「自然は空洞が嫌い」という言葉だけは、なぜだかわからないけれど心に残ったらしい。
古代ギリシャの哲学者アリストテレスの言葉として知られる「自然は真空を嫌う」(ラテン語:Natura abhorret vacuum)。
北川先生は、MOF(多孔性金属錯体)のお話と絡めながら、古典や哲学者の言葉を引用して紹介された。その中の一つだ。
自然は空洞が嫌い。
そう聞いた娘は、空っぽの口と胃袋を、さっそくチョコレートで満たそうとする。アリストテレスの言葉と、生理現象の符合を見る。
その後も何度か、
「これ、もう食べていい?」
と娘が尋ねるたび、夫が制止する。
おかげで、メダルチョコは今のところなんとか原形を保っている。
今は冷蔵庫に安置され、化学の神様の依代となっている。
……が、娘の地肉になる日は、そう遠くないような気がしている。


