最近、英語を学び直している。
海外からのお問い合わせや見学者が、2年ほど前から少しずつ増えてきたためだ。
これまではAIや翻訳アプリで何とか対応してきたが、いざ製作や修理について細かなご相談になってくると、やはりもどかしい。自分の言葉で、もう一歩踏み込んで話せるようになりたいと思った。
そこで英文法の本を一冊用意し、毎日1時間から3時間ほど学習時間を確保している。発音記号も、あらためて学び直している。
遠い昔に習った記憶はあるけれど、とても運用できるレベルではない。
しかし、千里の道も一歩から。
この1000日コラムを540日以上書いてきて、書くことに少しずつ慣れ、最初は見えなかった世界が開けてきた。その経験があるから、私は今、継続の力を信じることができる。
ありがたいご縁があり、アメリカの大学で音声学を教えている先生に、発音のチェックもしていただけることになった。
例文を練習して録音し、海の向こうへ送る。すると30分ほどでチェックが返ってくる。その速さには、毎度のように感動しつつ、そのチェックの細かさにも驚かされる。
「舌をもう少し後ろに」
「唇をもう少しリラックスして」
「舌をしっかり上顎につけて」
例え英語っぽい発音ができていたとしても、唇や舌の位置が少し違えば、別の音になるのだと打ちのめされる。
そのことを、私は先月、ネイティブ側の立場で身をもって体験した。
東南アジアのある国からいらした方が、「”カイギョ”を勉強している」と教えてくださった。
私は聞き返した。
しかし、やはり何のことなのか分からない。
すると後から、指導者らしき女性が、
「彼らは介護を勉強しています」
と教えてくださった。
そこで、ようやく膝を打った。
「かいぎょ」と「かいご」。
ほんのわずかな音の違いなのに、こちらにはまったく別の言葉として聞こえる。
もちろん、他にも一字違いで全く意味が異なる言葉は無数にあるし、逆に同じ音で意味の異なる言葉だっていくらでもある。そんなほんのわずかな違いの上に言葉が成り立っている。
それを、自分がネイティブ側に立ってみてあらためて実感した。
唇や舌のほんのわずかな位置の違いが、ここまで意味を変えてしまうのかと深く実感した。
しかし、それはもう、どうしようもない。言語というものが、そういうものなのだから。
一つの音を正しく出すために、舌の位置を覚え、唇の力を抜き、何度も録音する。
そうしていると、普段何気なく使っている日本語まで、少し違って見えてくる。
たった一音、そのほんのわずかな違いの上に、意味が立ち上がってくる。
その奥深さに、今宵も打ちのめされつつ、魅せられている。

