現代造佛所私記 No.54「隙間の音色」

「今だ」

お鍋に湯を沸かしている時間。
パソコンが重いファイルを開くまでの数秒。
夫が食事に戻ってくるまでの数分。
あるいは買い物に行く車中で。

そんな「待ち時間」が、いまの私の龍笛の稽古時間だ。

令和7年4月26日、高知のとある神社の記念祭の奉納演奏に、参加させていただくことになった。

仕事の調整がなかなかつかず、確定したのは桜も盛りを過ぎた頃。

通常、本番1ヶ月前ともなると、週に1〜2回ほど師匠にみてもらって、毎日夫と娘が休んでから稽古している。だが、今回はどういうわけか、飛び込みの仕事があったり、締め切りが続いたりして、昼も夜も立て込んでしまい、稽古時間の確保に苦慮している。

だから、常にパソコンの横に龍笛を置いて、隙間時間を捕まえてはさっと吹いたり、唱歌を練習したりする。もちろん出先でもいつも一緒だ。

こういう時、山あいの暮らしは本当にありがたい。
隣家まで距離があるから、夜でも気兼ねなく音が出せるからだ。

風の音、鳥の声、そばの小川のせせらぎにまぎれて、笛の音が山の向こうへ溶けていく。時に、鹿の声や鳥の声とハモることもある。

私の音色は、単純で幼い。息を制御できないことと、力みが取れないことと、他にもいろんな要因があると思う。

だけど、「下手でも恥をかいても、吹いてきた」という、と龍笛の先輩の言葉を聞いて、そうやって上達していくのだと悟ってからは、下手なのは置いておいて、その時の精一杯で誠心誠意稽古し、神様に喜んでいただこう、一緒に楽しませていただこう、という気持ちを一番に舞台へ上がっている。

当日も、場を共にする誰かの願いや祈りと、奏楽で共鳴できたら何より幸せだと思う。

このコラムを書きながらも、私は何度も笛に手を伸ばしていた。

思わず吹いていた。つい吹きたくなるのだ。

机の前で朝から晩までそうしていると、音色がどんどん変化していくことに気づく。

自然素材なので当然だが、温湿度によって変わるようだ。笛は生きていると改めて思う。

こうして振り返ってみると、「隙間時間」に吹いていると思っていた笛と、四六時中笛と共にいることに気づかされる。

そして、「笛が生きている」と思うと、ただそばにいるだけで、なんとなく心通うような気もしてくる。

吹いている間だけが稽古ではないのかもしれない、そんな思いが湧き上がってきた。

こうしてただそばにいる時間に、音の器たる笛に、信頼や労りの心が育まれているのではないかと。

さぁ、めでたい晴れの日はもうすぐだ。心も体もお祝いの気持ちでいっぱいにして、笛を通して祝意を捧げにいこう。