「うーん。どうしたものか」
昨夜、手帳をじっとみながら、考え込んだ。
翌日の午後の枠に、「参観日」と「打ち合わせ」の予定が、色違いで記入されている。
打ち合わせは前々から決定していて、参観日には行けない、ごめんね、と娘には話していた。ところが、前夜になって「明日の参観日きて。前に来てくれなかった時すごく寂しかったの。明日はきて」と言い出した。
いつもなら「わかった!お仕事がんばってね」と言ってくれる娘が、珍しく駄々をこねた。
妙に切実な娘の様子に、なんとかできないかと予定表をじっと見ていたのだ。
打ち合わせは13:00からオンラインで1時間。終わってから家を出ると、13:50から始まる参観日には間に合わない。
「前々から決まっていた打ち合わせを、参観日だからと直前に変更する?」準備してくださっている先方に対し、それはできない。でも、娘のいつになく切実な様子は無視できない。
しばし手帳を見つめて思案した。すると、ふと思いついた。
1時間半早く家を出ればいいじゃないか。小学校の駐車場で打ち合わせを終えれば、15分遅れで参観には間に合う。
「本読み、がんばるから。見ててね!」
参観日、遅れるけど必ず行くよ、という私に、満面の笑みで答える娘。
午前中の予定を片付け、パソコンとともに車に飛び乗った。
駐車場で予定通りオンラインの打ち合わせを終え、急いで校舎に向かった。
教室まで階段を駆け上がり、息を整えながら教室を覗くと、顔を輝かせ小さく手を振る娘と目があった。発表に間に合った。
本読みで、丁寧に声を張り読む姿がまぶしかった。
あぁ、来られてよかった。胸の奥から込み上げるものがあった。
参観のあと、娘の文房具を机にしまうために教室に戻ると、担任の先生が一人残っていらした。最近は家庭訪問も省略され、面談も機会が少ない。ご挨拶をすると、先生がいろいろとお話を振ってくださった。
娘も、嬉しそうに自分で作った誕生仏の話や、大好きな薬師如来のことを語っていた。「夢いっぱいやねぇ、楽しみやねぇ」と、穏やかな笑顔で相槌を打ってくださる先生。
学校で、先生とこんなふうに話をしているのか…。私は、娘の中で「先生」という存在が良きものとしてあることを感じていた。先生ともお話ができて本当によかった。
“参観日に行けない”が思い込みだったことを考えると、こうした思い込みが相当な機会損失を産んでいるのではないかと、ゾッとする。
大切なことは、いつも目の前にある。
気づくことができれば、
少しだけ手を伸ばせば――
ちゃんと、触れることができるのかもしれない。
帰宅後、娘が妙におかしいことに気づく。顔がむくみ、空咳をしている。これは熱を出すかもしれない。早々に休ませ、翌日学校を休むことをアプリに入力した。
「参観日きて」は「体調が悪いよ、不安だよ」ということだったのだ。
「今日はゆっくり休んでね。明日も何にも心配せんと好きなだけ寝ていいから。」新学期の疲れも出たのだろう、娘は布団に入ると、健やかな寝息を早々に立て始めた。
娘に教えてもらった。
小さな兆しを、見逃すな、と。