現代造佛所私記 No.517「手書きの快楽(前編)」

私の仕事部屋(兼台所)には何十本もの鉛筆が立っている。

ほとんどが小学生の娘が使いかけた鉛筆。

娘は物品の管理があまり得意ではない。まだ十分に使える鉛筆が、机の引き出しやランドセルの奥、家のあちこちから次々と見つかる。それを集めると、両手いっぱいの束になることも珍しくない。

学校用に五本、家用に五本もあれば十分だろう。

残った鉛筆をガラス瓶に立て、私の仕事机へ移した。それが、思いがけず手書きの楽しさを取り戻すきっかけになった。

二十代からパソコンを使い始めて以来、手で文字を書く機会はがくんと減った。

それが最近になって、また少しずつ増えている。

拾い集めた鉛筆を「使わないともったいないな」と思ったことが始まりだった。気がつけば、手書きの機会を探すようになっていった。字は決して上手ではないのだけれど。

メモや計算は鉛筆で。

手帳は細字の水性ボールペンで。

一筆箋は太字のボールペンで。

角二封筒の宛名はマジックで。

時にはガラスペンを使うこともある。

キーボードや音声入力に慣れてしまった体には、正直、手書きはまどろっこしい時もある。思考に手が追いつかず、みみずが這うような字になってしまい、後で読み返しても解読不能なことさえある。

その効率と楽しさの狭間で発見したことがあった。

紙の上を筆記用具が擦れる音を聞きながら書いていると、頭の中でぼんやりした部分が、くっきり像を結ぶようになったり、点と点がつながってパッと明るくなるような心地よい感覚がある。

効率では測れない喜びや快を、手書きはもたらしてくれる。

娘があちこちに置いていった鉛筆は、思いがけず私に、手書きの快楽を教えてくれたのである。