現代造佛所私記 No.51「人生の鑑賞者でいること」

一体この一週間、何を書いて、何を感じて過ごしていたんだっけ?
新しい週に入った途端、嘘のように忘れていた。

ブログをたどり、それぞれを読み返す。
日常の断片から生まれた言葉たち。
本番を控えた心の揺らぎ、炭火で沸かした白湯の味、誰かと響き合いたいと願う気持ち——
たった昨日のことさえ、数年前の出来事のように遠く感じた。

物忘れもだんだんと得意になってきた自覚はある。それに、私の中ではどうも、たとえ数時間後でも、一夜明けると決定的な「過去」になるようだ。

その「過去」は、それ自体が変わることはない。美術館の絵画のように、鑑賞者である自分は、それを別の何かに塗り替えることはしない。ただ、額縁を変えたり、置く場所を変えたりすることはできる。

時に、過去の意味合いがガラッと変わることもあるから面白い。そして、よく目を凝らしてみると、見過ごしていた何かが、小さく光っているのに気づく。しかも、そんな光の粒が、いくつも転がっていたりする。

「過去」という絵画は変わらないが、鑑賞者である自分が変容しているのだ。

ちょうど昨日、1000日コラム執筆チャレンジの50日目という節目を迎えた。

過去という絵画や映画を、置く場所を変えたり、別のものと組み合わせみたり。あるいはただそのままで受容する。そんな1週間の執筆だったように思う。

心に行き来する過去の印象や物語を、悪戯にこねくり回すのではなく、ミュージアムの目的に沿った展示に磨き上げるようなプロセスだった。

「組み合わせの妙」が起こることもある。

学生時代の“届けたい”という想いと、今のPRというスキル。
当時の自分の視点と、大人になった今の自分の視点。
別の時間や視点が組み合わされ、重なる瞬間がある。

No.50「宣伝美術とPR(後編)」を書いていて気づいたのは、18歳の頃に芽生えた「届けたい」という想いが、年月を経て今の仕事に繋がっていたことだった。

その過去を思い出した時、当時、関わった大人や先輩の目を通して18歳の自分を見ていた。

それなりに苦しいこと、悲しいこと、理不尽なことにも出会ったりしながら、それでも学校へ行って芝居をして、未来を描き出そうとしていた18の健気さを尊く思う。

1000日チャレンジはまだ始まったばかり。だけど、50日目のこの振り返りは、大人になった自分をしみじみ自覚する機会となった。とっくに大人になっていたのに、中身は変わらないと思っていた。だが、書いているうちに、大人の自分を改めて認識させられた。

感想をくださったり、近況を分かち合ってくださったり、ご覧くださった方の何らかのアクションにつながっていることを、畏れ多くもありがたく、書いてよかったなとつくづく思う。

日々の積み重ねが、読み手の誰かの心をほんの少しでも温めるほどの温度を持ち始めているとしたら、こんなに嬉しいことはない。

まだ始まったばかり、という静かな落ち着きと、50日も続けられたというほのかな喜びが入り混じる夜だ。

アイキャッチ画像は、数年前に家族で訪れた東京国立博物館。

・先週1週間で、最も反応が多かったコラム:No.50「宣伝美術とPR(後編)」