現代造佛所私記 No.506「休みの型」

ここのところ、小学校の学期終わりに、ちょっとした熱を出すのが恒例になっている娘。

娘なりに気が張っていたのだろうなと、長期休みの初っ端を布団で過ごす様子を見守っている。

熱や咳があっても、ピークを過ぎれば気持ちも体の調子も上向きになるらしく、寝転んだまま絵を描いたり、折り紙をしたり、読書をしたり、ゲームをしたり、自由にし始める。

病気なんだから、休んでいなさいともあまり言わない。

なんのしがらみもない、心向くままの時間が今必要なのだな、と思うのだ。

しばらくすると、勝手に起き上がって、身支度をし、宿題をし、外へ遊びにいくようになる。

「そうだよね」

と思う。私自身もそうして心身を充電したことを覚えている。

寝ていられないほど心身が充実するまでひたすらに体を休め、心ゆくまで物語の世界に浸り、創作に没頭する。

分刻みの毎日から解き放たれる数日が、生きていくためにはどうしても必要だった。小学校2年生の時には、それが不登校という形にもなった。

娘の中にも、潜在しているその働きを見て、この時ばかりは口うるさいお母ちゃんはなりを潜める。

対して、夫は違う。よほどのことがない限り、どんな日にも、たった数分でも作業場に入る。出張か、病気の時以外、仏像を彫らない日がない。

私や娘のように、どっぷりと非日常に身を沈めるような休み方をしない。できない性分らしい。

きっと夫にとっては、造仏が仕事であり、趣味であり、休息の時でもあるのだ。夫もまた、子どもの頃には長く学校へ通えなかった時期がある。しかし、仏像に出会ってからというもの、仕事と休みの境目はとても曖昧になったらしい。

娘には娘の休み方がある。
私には私の。
夫には夫の。

そのどれもが、また歩き出すための、かけがえのない型なのだ。