2026年下半期に入り、示唆に富む言葉との出会いが続いている。
今日は「剋念作聖(こくねんさくせい)」。
調べ物をしていて、ある著名な仏師の作品集の題に掲げられているのを見つけた。
『尚書(書経)』周書・多方篇の一節に由来し、「己の欲望を抑え、善を思い、正しい心を保ち続けることで、人は聖人となることができる」という意味だという。
聖徳太子が制定した『十七条憲法』第七条にも引用され、古くから人の修養を説く言葉として受け継がれてきた。
己の心を正しく保ち続けること。そのなんと難しいことか。
たとえば、お茶を点てていて、運ぼうとした柄杓を落とし、拾おうとした拍子に襖に腰が当たってバランスを崩す。それだけのことに、声を上げてしまいそうになる。心を整えているつもりでも、こんな小さなことで揺らぐ。茶室のような静かな場所でも。
そんな揺らぎに「剋念作聖」と口にしてみる。
すると、不思議なことに、心の揺らぎが少しだけ勢いを失う。
もちろん、その程度で収まる揺らぎだったのかもしれない。それでも、長い年月を生きた人々が遺してくれた言葉には、心を修め、養ってくれる力が確かに宿っているのだと感じられる。
この言葉を作品集の題にされた大仏師は、戦中のお生まれである。
仏師の家に育ちながらも、戦後、仏師という仕事は風前の灯だった。仕事はほとんどなく、生活は苦しく、将来に夢や希望を抱ける状況ではまったくなかったと語られている。
工房の本棚には、その方の作品集が何冊も並んでいる。
ページをめくれば、そこには数え切れないほどの仏さまのお姿がある。その一体一体の向こうに、そのような時代が流れていたのだと思うと、込み上げてくるものがある。
苦しい時代にも、「剋念作聖」を胸に、黙々と彫刻刀を執り続けてこられたのではないだろうか。
現代の仏師も、決して恵まれた時代を生きているわけではない。それでも、迷い、揺れ、苦しみながら、仏に心を寄せ、木と向き合い続ける。
今日も、工房では、吉田仏師が黙々と手を動かしている。仏に心を寄せ、木と向き合い続けている。
用事を済ませ「じゃあね」とだけ声をかけ、彫刻室を後にした。
梅雨明けも、もう間近。開きかけた傘を閉じて空を仰ぐ。
「剋念作聖」という言葉に出会った日、一軀の小さな観音様が生まれた。

