「忘筌(ぼうせん)」。
茶道の高知県支部長のご挨拶の中で耳にした、とても印象深い荘子の言葉である。
魚を得て筌を忘る。(書き下し文は以下)
筌は魚に在る
所以、魚を得て筌を忘る。
蹄は兎に在る
所以、兎を得て蹄を忘る。
言は意に在る
所以、意を得て言を忘る。
吾、安にか夫の忘言の人を得て、
之れと与に言わんや。
筌(せん)とは魚を捕るための道具のこと。魚を得れば、その役目は終わる。同じように、兎を捕る罠も、言葉も、本来は目的を果たすための手段に過ぎない。
いつしか手段そのものに心を奪われ、本当に大切な目的を見失ってはいないか。
そんな問いが、この「忘筌」という言葉には込められている。
「胡蝶の夢」に出会ったのは、中学生の頃だっただろうか。
美しく、そして本質を射抜く寓話に、どぉーんと腹の底まで響くような身体感覚を覚えた。荘子の思想には、理屈ではなく、感覚の深いところを揺さぶられる不思議な力がある。
茶の湯も、多くの美しい道具によって支えられている。
一つひとつの道具を大切に扱うことはもちろん大事だ。しかし、その先にある一服のお茶を最もよい状態でいただき、主客が一つの時間を分かち合うこと。その順番を忘れてしまえば、本末転倒になってしまう。
そして、仏が説かれる悟りの世界と地続きなのだということを忘れないでいたい。
これはそのまま、仏像にも重なる。
仏像は、手を合わせる人が心を静め、やがて自他の隔てを忘れるような世界へと歩みを進めるための縁として生み出されるものだと私は思っている。
その役割があるからこそ、大切に守られ、受け継がれてきた。文化財としての価値も、美術としての価値も尊い。しかし、それは本来の役割の上に成り立つものであることを、見失わないように。
「忘筌」。
仏像だけではない。PRも雅楽もまた、大切なものを届けるための「筌」である。だからこそ、手段を磨きながら、その向こうにあるものを見失わない工房でありたい。
私たちの工房は何のためにあるのか。
原点に立ち返らせてくれた言葉であった。

