現代造佛所私記 No.482「参道の猫」

今朝のテレビはどのチャンネルも、台風と地震だった。

ニュース映像を見るたび、日常が一瞬で様変わりする現実を思い、胸がギュッと締め付けられる。今住んでいる市でも、地元のケーブルテレビが防災セミナーを丸ごと放送してくれていて、ちょうど事前復興について考えていたところだった。

台風や地震、災害を身近に感じる今、祈るように登校する子どもを送り出している。

登校時だけでなく、出かける時、帰ってきた時、通りがかる神社の参道で、鎮守の森に向かってご挨拶をする。

移住してきてから、つまり娘が三歳の時からの習慣だ。神様が在わす場所の前を横切るにあたって、ごく自然な気持ちで始めたことだった。敬愛の気持ちと共に、ご近所の人がいたらご挨拶するのと似た感覚もある。

今朝も、参道の前にさしかかると、一緒に二礼二拍手した。

「今日も無事に過ごせますように」

舗装されていない粘土質の参道は、農機具や獣の足を轍に、ランダムに水溜りを作っていた。嵐の後で、いつもより水浸しだ。

「あっ、猫だ」

その先の石段のそばに、鳥居に向かって正対して座るチャトラの猫がいた。朝靄の中、氏神様の眷属かと思わせるような、幻想的な佇まいだった。

娘があげた声に反応して、猫がふっと振り返った。

「時々うちに遊びに来る猫ちゃんだね。なんだか、かっこいいね」

少し登校するのを億劫がっていた金曜日の朝、思わず出会えた猫に、娘が声に喜色を滲ませる。

そんな、なんでもないいつもの朝。

だけど、いつも抱えているのは、これが最後かもしれない、という気持ちだ。いつからともなく、そう感じるようになった。以前に看取りの現場にいたことも大きいと思う。いつか必ず死別するということに、疑いがなくなったことから。

抱きしめて、送り出す。

どうかまた無事に会えますように。日常にそんな切実な祈りを込めるのは、医療機関での経験だけではなく、災害や事故、争いの中で、多くの犠牲とその悲しみと絶望に直面した人々がいる、そのことを知っているからだ。

他人事ではない。いつ自分の身に起こってもおかしくない。

ともにいる喜びは、別離の悲しみと背中合わせだ。