現代造佛所私記 No.47「風の通る場所」

今月は、ふたつの「本番」を控えている。

茶道の点前と、神社での雅楽奉納演奏。

どちらも、神仏を荘厳する大切な時間だ。

ありがたいことに仕事のご依頼が続き、ついつい日が暮れても夢中になっている。夫に「まだやってるの」と言われて気付けば日付も変わっていた…ということもしばしば。そんな中で、少しずつ稽古の時間を見つけては、積み重ねている日々だ。

慌ただしい毎日のなかの「稽古」は、むしろ心を整えてくれる給水所のような存在でもある。

とはいえ、演奏会も茶席も間近に迫り、限られた時間の中で焦りがよぎらないわけではない。カレンダーを眺めながら『間に合うだろうか』と、つい独り言がもれる日もある。

「技量が足りない」と嘆いても仕方がない。 ただただその時にできる最善の稽古するだけだ。そんなふうに開き直って笛を構えると、不思議なのだが、体に「風」が通りはじめる。

こわばっていた肩がゆるみ、背筋がすっと伸びていく。頭の中にぐるぐると残っていた思考の迷路も、少しずつほどけていく。——そうしていると、自然と師の声が浮かび上がってくる。

師匠は、笛を愛し笛に愛された飛天のような御方だ。

「腰は反らさず、後ろの襖なんかにゆったりもたれかかるように」「覚えなきゃ、ではなく、“あ、なんかできちゃった♪”を重ねていくといいですよ」「沙織さんの音が育ってきてる。とてもいいですよ」

私はいつも、そんな師の姿を画面越しに見て稽古している。オンラインで稽古をつけていただいているのだ。

そのことを話すと、「オンラインじゃ無理だよ」と言われることもある。

けれど私は、距離を越えて導いてくれる師と、師の師、そのまた師—— 遠くから手を差し伸べてくださっているような存在に、確かに包まれ手を引いていただいていると感じる。

だからこそ、自分の小ささを嘆くより、それさえ差し出しせめて真心でと臨む。

それでしか、本番にも、恩にも応えることができない。

笛を吹いていると、猫たちがふいに土間の机にやってくる。「あそぼう?」と言いたげに、笛を奏でる顔を覗き込む。構わず稽古していると、「相手してくれるまで待つよ」ということだろうか、正面に陣取る。

「今の演奏、どうだった?」 問いかけても、猫たちは沈黙を守るだけだ。まぁ、人間より耳が良いらしい猫が逃げ出さないのだから、私の音色もあながち悪くないのかもしれない、と自分を少しだけ鼓舞してみたりする。

きっと明日も、整いきらないままの自分で笛を奏でるのだろう。焦りや不安にとらわれず、ただ、その時の龍笛に委ねようと思う。

こうして稽古を重ね、本番を迎えるという行為の中には、ただ技術を磨くだけでなく、日々の体験や感情を繋ぎ、見つめ直す時間がある。

手のひらサイズの板があれば、寝転がっていても大量の情報が流れ込んでくる時代だ。ものすごいスピードで過ぎ去る情報の中であえて立ち止まり、「道」「技芸」の世界に自らをポツンと置いてみる——この、洗練された豊かな「未知」に晒されることの爽快さよ。

「未知」の景色には、驚くべき知性と自由なまなざしがあり、いつも風を起こしてくれる。

本番があるからこそ、私は何度でもここへ戻ってこられる。本番という未来が、日常に溺れそうな私を、この風の通る場所へいつも連れてきてくれるのだ。