現代造佛所私記 No.44「言葉の楔、シラユキゲシの声」

1000日コラム執筆チャレンジを始めて、ひと月以上が経った。

毎週月曜日は、前の一週間のコラムたちを振り返る日にしたい。

今週もまた、私のもとに数えきれないほどの言葉や心の揺らぎが去来した。そこから掬い上げ、編んだ小さな塊たち。

リアクションやコメント、メッセージで分かち合ってくださった方々、沈黙のなか共鳴してくださった方々に、心からの感謝と敬意を。

  • 娘と作った紙粘土の誕生仏、陽気な近所のおじさんが届けてくれた茄子(No.38)
  • 春の山間に響いた、蓮弁を葺く「トン、トン…」という音(No.39)
  • 茶道の稽古で言い渡された点前役。ごまかしの効かない本番を前にした、心の揺らぎ(No.40)
  • 1000分の40という節目(No.41)
  • 記憶の端にしか残っていないはずの出来事が、娘の心の奥で光る鉱石に(No.42)
  • 時間に追われない休日の朝、という贅沢(No.43)

どれも、特別なことではなかった。
けれど書くことで、日常が少し澄んで見え、「あぁ、かけがえのない人生を送っている」と思えた……と言ったら、大袈裟だろうか。

「書く」ということは、絶え間なく流れていく時間のなかに、ひとつひとつ「言葉の楔」を打ち込むようなことかもしれない。そう感じていた。

その楔の跡には、小さな明かりが灯る仕組みのようで、以前より見えるものがある。

ということは、きっと、見えることで失われたものもあるのだろう。

これは、ただの言葉遊びかもしれない。

でも、無為に過ごすよりずっと、人生において大切なものを、ほんの少しでも掬い上げられたような気になるのだ。

そんな今日。お茶の稽古場でシラユキゲシ(白雪芥子)と出会った。

雨の中凛と咲いていて、キラキラと光を反射していて、足を止めずにはいられなかった。

「楔を打ちこむような書き方」だけでなく、「雨粒を掬って光らせるような書き方」もあるのかもしれないね——シラユキゲシは、そんな風に語りかけてきた。

確かに、あなたのように、雨降るような心のおしゃべりを、手のひらで掬って光らせるような、そんな書き方もしてみたい。

花との出会いが、新たな扉を開くこともある。

これからも、小さな楔を静かに打ち続けていく。そして時には、雨に打たれて滴を丸く光らせる草花のように、この無明の心に少しずつ明かりを灯していきたい。

・先週1週間で、最も反応が多かったコラム:現代造佛記No.38「誕生仏と茄子」