現代造佛所私記 No.40「本番という名の鏡」

「あぁ、どうしよう」

茶道の稽古を終えた帰り道、くねった山道を上りながら、私は何度もつぶやいていた。

行きはよいよい。

山桜に花桃、春の匂いに誘われるように、抹茶と和菓子、師匠との会話を楽しみに車を走らせていた。けれど帰り道は、胸の奥に、つきたての餅がじわじわと固まっていくような重たさを感じていた。

不安と覚悟が、沈黙のまま押し合っている。

「どうしようもこうしようもない、やるしかない」

表千家の師匠とのご縁で、40歳から茶道を始めた。昨年は仕事の都合で一年休み、この日は復帰して二度目の稽古だった。

「頭で考えないで、体で覚えるのよ」と、何度も言われてきた。

だから復帰後、試みに参考書やノートを見ず、考えすぎないよう、身体に委ねることに集中してみた。

足裏や膝で、サッサと畳と擦れあう音。歩数もリズムも決まっていて、まるで静かな神楽のよう。

手先と帛紗が息を合わせ、開いたり折り畳んだりする舞うような感覚。

棗(なつめ)の中の、ふかふかの抹茶のお山。それを茶杓で切り崩すシャリッとした感触。サラリと掬い上げられた微細な粒子のひと匙の緑。

釜の蓋を開けるときに、ふわんと立ち上る湯気の精。煮える釜の中の湯相(ゆあい:お湯のわき加減)。パチ、と釜の下で火の回った炭が微かに弾ける音…。

そうそう、そうだった。ぎこちないながらも、自分の身体が少しずつ点前を思い出していくのがわかった。

あぁ、お茶って何て楽しいんだろう。時々間違えたり忘れているのを師匠に助けてもらいながら、亭主の席から見える景色を楽しんだ。

ところが状況が一転する——

点前を終えたとき、師匠と姉弟子が視線を交わしてうなずき、「吉田さん、大丈夫そうね」という声が聞こえた。私は一瞬、意味がわからなかった。

春の茶会の席持ちを控えている姉弟子が、「茶会でお点前をお願いできるかしら」と微笑んだ。

あのときの焦りといったら。

1年のブランクを考えても、私は水屋かお運びの手伝い役だろうと考えていた。しかも私は、かつて由緒ある茶会で、釜の蓋を桐棚に落とし、傷つけてしまった経験がある。思い出しても冷や汗がでる。

「本番」とは何だろう?

それは、究極の一期一会。自分という存在がただそこに在り、いかに在るかを問われる時間。たった15分や20分の間に、これまでの暮らしも、心の癖も、全てが現れる気がする。

「本番」とは、その空間をつかさどる何かに、「ありのまま」をお供えすることなのかもしれない。取り繕うことのできない、生(なま)の自分を差し出すからこそ、怖くて不安なのだ。

本番まで、自分と向き合う毎日が始まった。