日華が旅立って2ヶ月が過ぎた頃、テンとロイロがいつの間にか家を離れた。
テンは山道で再会し、一度は家に帰ってきた。だが、再び隙をついて脱走しそれっきりだ。ロイロはもう2年姿を見せていない。
それでも、テンはまだ山のどこかで生きているらしい。昨日も夫がそれらしき猫を見かけたという(去勢手術済)。
あのどこかとぼけたような表情で、山の中を自由に逞しく生きているのだろうか。自由を求めて出ていったのなら、人に飼われるより、むしろ猫らしい、自然な営みの中にあるのかもしれない。そう思うと、ほんの少し、心がほどける気もした。
家には、皓月とウニが残った。
日華の娘であるウニは、日ごとに母・日華に似てきた。
細いしっぽの先を自在に操りながら、時折「ナゴワーン」と鳴く。あの低くて太い、日華そっくりな声で。
ウニが母親と違うのは、彼女の瞳には日華ほどの飢餓感や野生味がないということだ。どこか満たされ、穏やかな色をたたえている。
皓月とウニは、よく寄り添って眠る。時には追いかけっこをし、時には毛づくろいをし合いながら、互いの存在を確かめ合い、一つ屋根の下でともに生きている。
私は彼女たちを見て気づく。猫と暮らす日々が私たちにどれほど豊かな時間をくれているのかということを。
「この子たちのことを、いつか思い出しながら、語り合う日が来るんだろうね」
夫とそんな話をすることがある。
私たちが先にいなくなるかもしれないし、猫たちが先に旅立つかもしれない。
いずれにせよ、心のどこかで、いつか必ず来る別れの時を知っている。何より特別な「今日」という日を知っている人も、必ず全員いなくなってしまうことも。
あなたにも、忘れられない別れがあるのではないだろうか。失ってから、心に温かく灯るような存在がいるのではないだろうか。
言葉にしようとすると、手のひらからこぼれてしまうような、豊かに満ちているつながりが。
喪失と悲しみが思い出に変わったとき、あなたはその記憶にどんな言葉を添えているだろう?
私たちの工房は、祈りを形にする場所。
人が生まれては去る「四苦八苦」の世界で、祈りや願いと共に手渡されていく仏像。愛するものが幸せであるようにと、願われ生まれた形だ。
日華との別れの中で私は、その悲しみをどっしりと受け止めてくださる仏さまの存在を、たしかに感じた。
動物を守り導く馬頭観音に手を合わせる。たくさんの幸せを運んでくれた猫たちが、どうか報われ、幸せでありますように、よき縁を得られますように、と。
たとえ姿が見えなくなっても、命は巡り、またどこかで会えるのではないか。猫たちともきっと、今回だけでなく以前にも、そして未来でも、どこかで。
「はじめてなのに、どこか懐かしい」そんな出会いが、人生にはいくつもあるからだ。
皓月との出会いから始まった、猫たちとの物語は、これからも続いていく。
それはやがて、記憶となり、思い出となり、いつか神仏へ手向ける花や香のような、静かな祈りに変わっていくのだろう。
いつかまたどこかで、この物語の続きをあなたと分かち合いたいと思う。