山のふもとに、車で通り過ぎるだけの一角がある。 車を止めるほどの余白はなく、今は使われなくなったゴミステーションと、社への階段があるだけの、ゆるやかなカーブの場所だ。
ここは、梅の季節だけは、少し特別になる。 私は決まって、その場所に差しかかる少し前から、窓を開けて準備をする。 どんなに寒くても、雨の日でも、窓は全開にする。
道路の両側に、白梅、紅梅、蝋梅が見えてくる。 この辺りはとりわけ白梅が多く、今の時期は満開である。
ふわんと流れ込んでくる香りが、車中を満たす。 一瞬で、身も心も満たされる香りだ。 この香りを思いきり吸い込むために、私は窓を開けて準備をするのだ。
梅の周りには、空き家になったばかりの家があり、屋根が落ち、朽ちつつある家もある。 決して明るい景色ではないかもしれない。
それでも、この梅たちは、かつてここに暮らしていた人たちが植え、愛でたものなのだろうと、自然に思いが及ぶ。暗い気持ちだけではない、複雑な感覚が湧き上がる。
少し前まで住んでいた老夫婦は、いつの間にか姿が見えなくなってしまった。 あの朗らかな方々も、きっとこの香りを楽しんでいらしたのではないか。
その少し先、銀杏の木の根元にうずくまるように跡を残す家屋の主も、 季節の訪れを、同じように感じていたのだろうか。
そんなことを考えながら、私はただ香りを吸い込む。
家族からは、「寒いから閉めて」と言われることもある。 それでも、この時間だけは譲れない。 朽ちていくものを、ただ見守る。 大袈裟かもしれないが、「看取る」と言ってもいいのかもしれない。
私は毎年、それをくり返している。
このあたりには、茶の木や梅、桜、柚子、橙、柿の木があちこちにある。人がいなくても、木々は季節が来ればきちんと花を咲かせ、実を結ぶ。 誰にも収穫されず、枝いっぱいに実をつけたまま、静かに時を過ごしている。
私が社会的に条件づけられた時間の感覚と、自然の時間の流れ方の違いを、つくづく感じる。そして、かつて、人と自然の時間が重なっていた痕跡は、なんというか、切なくも愛おしいものだ、と思う。
梅の香りを胸いっぱいに吸い込みながら、私はこの土地に積もった時間を尊く思う。 祈りというほどのものではない。 ただ、ここに確かにあった営みの豊かさを、受け取ったよ、という小さな意思表示である。


