「木が泣きゆう」
施主の男性がポツリと言った。
ジリジリと照りつける高知の太陽の下、輪切りにされた木の断面から堰を切ったように水が流れ出ている。
私たちはただただその様子を見守っていた。
目の醒めるような樟脳(しょうのう)の香り、舞い散る木くず。周りののどかな風景は写真のように動かない。
時が流れているのは、木と私たちの周りだけに思えた。
話は1年前にさかのぼる。
ある神社のクスノキの大木が、車道に覆いかぶさるように枝を伸ばした。
危険を感じた近隣の住人が相談しあい、やむなく切ることにしたのだそうだ。
「この枝を供養したい」と地元の男性が発願した。枝を仏像にして生かしてやろうと思い立った男性は、彫刻を頼める人を探していたらしい。
私たちは当時、東京から四国に引っ越してきたばかりで、お互いに知る由もなかった。
ある日、男性に「四国に移住してきた仏師がいる」というニュースが入った。
お寺さんを通じて私たちに連絡があり、さっそく大楠の枝(といっても相当な大きさだった)から彫刻に適した部分を見定めて欲しいとのことで、男性の元へ車を走らせたのだった。



さて、目の前で木が泣いている。
とめどなく水が流れる様子は、大の大人が泣きじゃくっているようでもあった。
痛いのだろうか、嬉しいのだろうか?木に聞いたとて教えてはくれない。
ただこのとき「この木は語ることばを持たずとも、意志がある」と何となく感じた。
そんな木が流す涙とは。
痛いけど嬉しい、寂しいけど楽しみ、あるいはもっと深淵なものか…とにかく複雑なものであったろうと思う。
(続く)
本稿は、2019年noteで発信した「木の香り、木の声、仏のうた」を再編したものです。