現代造佛所私記 No.3「木の声、仏のうた(一)」

「木が泣きゆう」
施主の男性がポツリと言った。

ジリジリと照りつける高知の太陽の下、輪切りにされた木の断面から堰を切ったように水が流れ出ている。

私たちはただただその様子を見守っていた。

目の醒めるような樟脳(しょうのう)の香り、舞い散る木くず。周りののどかな風景は写真のように動かない。

時が流れているのは、木と私たちの周りだけに思えた。

話は1年前にさかのぼる。
ある神社のクスノキの大木が、車道に覆いかぶさるように枝を伸ばした。

危険を感じた近隣の住人が相談しあい、やむなく切ることにしたのだそうだ。

「この枝を供養したい」と地元の男性が発願した。枝を仏像にして生かしてやろうと思い立った男性は、彫刻を頼める人を探していたらしい。

私たちは当時、東京から四国に引っ越してきたばかりで、お互いに知る由もなかった。

ある日、男性に「四国に移住してきた仏師がいる」というニュースが入った。

お寺さんを通じて私たちに連絡があり、さっそく大楠の枝(といっても相当な大きさだった)から彫刻に適した部分を見定めて欲しいとのことで、男性の元へ車を走らせたのだった。

さて、目の前で木が泣いている。
とめどなく水が流れる様子は、大の大人が泣きじゃくっているようでもあった。

痛いのだろうか、嬉しいのだろうか?木に聞いたとて教えてはくれない。

ただこのとき「この木は語ることばを持たずとも、意志がある」と何となく感じた。

そんな木が流す涙とは。
痛いけど嬉しい、寂しいけど楽しみ、あるいはもっと深淵なものか…とにかく複雑なものであったろうと思う。

(続く)

本稿は、2019年noteで発信した「木の香り、木の声、仏のうた」を再編したものです。