現代造佛所私記 No.25「茶室のシンフォニア」

7年ほど、ゆっくりとしたペースで茶道の稽古に通っている。

実母は娘時代から裏千家を学び、私もまた幼いころから抹茶と練り切りの味を知った。自宅には茶道具が一揃いあり、幼心に畏れと憧れを抱きながら、それらに手を伸ばした記憶がある。

本格的に習うまでに四十年の歳月が流れた。高知にUターンする際に表千家と出会い、月二回の稽古を重ねている。

師匠は新たな弟子を取らない方だったが、紹介者のおかげで入門を許された。茶室への入り方も知らなかったが、師匠の稽古はすべてがただただ楽しかった。

茶室に満ちる香り、畳をする音、道具たちの佇まい、主客の所作、交わされる言葉。 高知の住宅街の八畳間が、時を超える宇宙船となる。

ここで思いがけず、再会を果たしたものがある。

曽祖母、祖母、大叔母から受け継いだ着物たちだ。主を失い長く箪笥に眠っていたが、稽古を機に私が袖を通すことになった。家族の気配が、肌の上でそっとたゆたう。

最初の着付けは二時間かかったが、「着付けは慣れよ」という師匠や姉弟子の言葉どおり、今は二十分もあれば整う。古風な柄や風合いに心ときめく。

ところが、幾度も袖を通すうちに、着物は少しずつ疲れを見せ始めた。

裾がバラッとほつれていたり、裂けた身八つ口に気づいた時は泣きたくなった。「ごめんね」と思う。悲しんでも仕方がない。直せるものは和裁の心得のある母に託し、寿命を迎えたものは別の形で命を吹き込もう。形あるものは、いつかそうなる運命なのだから。

茶道の道具たちもまた、長い時を生きている。湯を沸かし、汲み、注ぐもの。 茶を入れ、掬い、かき混ぜるもの…。

欠け、折れ、変色しながら、幾世代を経て今もここにある。

この手に届くまでに、どれほどの人の思いを乗せてきたのだろう。職人の技、主の美意識、客のまなざし。道具たちは、物言わず物語を紡ぐ。

祖先の気配織る着物を纏い、私はまた稽古場へ向かう。

一服の茶を喫する。

たったそれだけの刹那に、過去と未来とが奏であう静かな音色を聴く。

それは、過去の響きと、未来への祝福が溶け合った、今この瞬間にだけ生まれるシンフォニーだ。