現代造佛所私記 No.234「数歩先」

実は、我々の仏像工房に、なぜかパソコンの相談が絶えない。PR事業を始めてから、PR支援の延長上で、いつのまにか家庭教師のようなことまで引き受けるようになっていた。

Excelのセルがずれてどうしようもない、Canvaでお知らせを作りたい、メールが受信できなくなった——専門的なことではない。「スマホの通知が消えない」という、ちょっとしたつまずきのような相談もある。

思えば、私が初めてパソコンを触ったのは大学の情報処理の講義だった。ろくに講義も聞かず、タイピング練習ソフトの打鍵音だけをカタカタと鳴らしていた、あの愛すべきPCだらけの空間。

「習うより慣れろ」だなぁと心で軽口をたたきながら、本当にただ触っているうちに使えるようになっていた。何かを学んだというより、偶然、慣れた。それゆえ人に教えるほどのことではないと、ずっと思っていた。

当時、大学にはパソコンを魔法のように扱う人たちがいた。AIという言葉などまだ聞いたこともない頃、チャットで話せるロボットを作っていた先輩がいた。世界的なOSの会社役員のご子息もいた。彼らの指先の向こうには、私には見えない広い世界があった。だから自分のすることなど、「ひらがなが書けるようになった」程度のことだと信じて疑わなかった。

それがある日、「あれ? けっこうパソコンできるのね」と言われた。その一言で、少しずつ景色が変わっていった。

作家の秘書をしていた頃、資料を探してまとめたり、写真を整えたりするだけで、上司が「えっ、もうできたの?」「そんなことまでできるの?」と目を丸くされた。自分が役に立てることがあるのだと知ったとき、胸の奥に小さな光が灯った。そこから上司の要求が少しずつ難しくなり、それに応えるたび新しい扉が開いた。今のようにAIが手伝ってくれる時代ではなかったから、ひとつひとつ検索しては試した。インターネットという言葉がようやく市民権を得て、ブログやSNSが花開く頃だった。

そのとき身につけた、ほんの少しばかりの先行経験を、今は求める人に伝えている。たかが数歩先にいるだけの人間が、道端の石につまずかぬよう合図する——それくらいのことだ。けれど「ありがとう、助かりました」と言われるたび、胸の奥がほっと温もる。

今朝も電話の向こうから「ヘルプ!」の声。なんてことのない小さな不具合だったが、解けた瞬間の明るい笑い声が受話器の向こうで弾けた。「うわー、解決した! ありがとう!」その声を聞くと、こちらこそありがたいと思う。

手の届かぬ距離にある誰かの暮らしの中で、わずかでも役に立てる。そのことが、こんなにも温かいとは、昔の私には想像もできなかった。

画面の向こうで点滅するカーソルが、「今日はここまでだね」と仕事の終わりを告げている。