同じ話を何度しても、それは同じ話にはならない。
生涯大学で受け持つ授業は、内容こそ変わらないけれど、毎回、呼吸が違う。1パラグラフの話も、ある日は詳しく語り、ある日は簡潔に。
教室に掛けておられる一人ひとりの醸す気配を感じながら、言葉は自ずと姿を変えてゆく。相手との間合いを測ることこそが、話すということの本質なのだろう。
今日、壇上にはコスモスとマリーゴールドが活けてあった。昨日とは違う花器だった。きっとどなたかが用意してくださっているのだろう。素朴で、けれど存在感のある花たちだ。隣に花たちがいてくれるだけで、肩の力が抜ける。花には人を素直にする不思議な力がある。
授業の前後に、何人もの方が声をかけてくださった。霊場の先達を務める方、私が話したお寺と交流のある方、私と同じ市内にお住まいの方……。
それぞれの接点が、思いがけない縁を結んでゆく。
「素晴らしいお話をありがとうございました」「わかりやすかったです」という言葉をいただくと、ほっとする。専門的な言葉や表現も少なくない内容だから、いつも心配なのだ。けれど、伝わったという実感は、私にとって何にも代えがたいご褒美になる。
法要中の雅楽の映像が流れたとき、小さな「ほぉ」という声があちこちからさざなみの様に聞こえた。その小さな驚きの声は、確かに心が動いている証拠だ。
その声の余韻があるうちに、12月に予定されている師匠方の高知公演のチラシを配った。この小さな紙片が、また誰かと誰かを繋ぐかもしれない。
一期一会という言葉が、静まり返った夜半にふと思い出される。人の出会いにおいて、最上の言葉ではないかと思う。
壇上の花も、教室の誰かも、今日という日も、二度とは戻らない。だからこそ、毎回少しずつ違う話になるのだ。
それが、相手を、そして自分を、大切にするということなのだと思う。
参加してくださった皆様、本当にありがとうございました。


