終齢になった芋虫たちが、ある朝、妙に騒がしそうだった。枝から枝へ、地面へ。まるで何かを探しているみたいに、せわしなく這いまわっている。
気づくと、メダカの住まう睡蓮鉢の縁に、ハーブのプランターの脇に、あるいはアスファルトの上に。こんなところまで来て、他の動物に見つかりはしないだろうか、人間に踏まれやしないだろうか。
そう心配しながらも、私はただ眺めることにしていた。柑橘の葉だけはふんだんに与えておく。あとは、手を出さない。そう決めた。
そして数日。もう彼らの姿が見えない。どこかで蛹になったのだろう。ああそうか、と思う。それきりである。夫に「胸の奥に、ぽっかり小さな穴があいたみたい」とだけ言った。
金木犀の花が盛りを迎えた山を下る途中のこと。ふもとに差し掛かった時、車の前を、アゲハ蝶がひらりと横切った。陽光に照らされ、白い光をまとったような、きれいな羽。ほんの一瞬だったけれど、思わず「ああ、よかったねえ」と声が出た。
我が家に突然現れ、そして去っていった芋虫たちと、この蝶と、多分関係がない。それでも、どこかでつながっているような気がして、私は少しホッとした。
時間をかけて、小さな卵からここまで大きくなれたんだね、よかったね、と。ただただ命を祝福した。
見守るというのは、手を離すことかもしれない。何が起こってもそのプロセスを信頼し、ぐっと堪える。私にとっては、忍耐や寛容を養う時間でもあり、それは深い滋養をもたらしてくれる。
異なる種ではあるけれど、等しく命を授かったものとして、命のめぐりを目撃したものとして、同志のような心持ちを抱えて、秋の細い道を、ゆっくりと車で下っていった。


