現代造佛所私記 No.185「まことの花」

八月はお茶のお稽古がお休みだったため、昨日は七月以来となる稽古日だった。
しばらくぶりだったので、基本の「運びの薄茶」を復習した。

以前は、早めに支度を整え、着物に着替えて稽古へ向かったものだ。けれど今は、ぎりぎりまで仕事をしてから洋服のまま駆けつける。靴下を白足袋に履き替えて畳に座るが、着物よりいくらかのやりにくさもある。着物は体を支えてくれるし、お茶をするのに具合が良いと実感する。とはいえ、基本の流れは変わらない。美味しいお茶をお出しする心に違いはない。

「上のお点前も大事だけれど、薄茶が基本だからね」と先生はたびたび仰る。
目の回るような八月を経てみれば、釜の前で茶碗を清め、コポリと柄杓が湯に浸かる小さな手応え、茶筅を振り、ふわりと立ち上る抹茶の香り——その一つひとつが心を落ち着かせていった。

この日の茶花は、山ぶどうに檜扇。棗には尾花とうずらの蒔絵、茶杓の銘は「露時雨」。菓子器には蜻蛉が舞い、お茶碗には栗の絵付け。秋を運ぶ取り合わせが目にも心にも楽しい。お菓子は、菓仙山本製の「泡雪羹」。ふわりと溶ける卵白と寒天の白い口どけの中に、こっくりとした粒餡が忍んでいる。やわらかさと深みが同居する味わいに、季節の移ろいが音もなく重なっていった。

「やっぱり山本さんのお菓子は美味しいねぇ」
姉弟子とニコニコ顔で喜びを分かち合った。

一か月ぶりの稽古で、細かな手順を忘れているところもあった。けれど、いざ帛紗をさばき、ぽんと塵打ちをしてみれば、体が自然と動きを思い出していく。考えるより先に手が動き、呼吸と所作がぴたりと合うと、心も体もすっとおさまりがよい。

すでに指導者として活躍されている方々も、門弟としてこの稽古場に集う。師匠は一つひとつの所作の揺らぎをも見逃さず、細やかにご指導なさる。その姿から伝わってくるのは、ただの技術や知識ではない。この道が持つ底知れぬ奥行き、そして磨き抜かれ練られた真善美の輝きだ。稽古に立ち会うたび、私はその世界に触れる感動に胸を打たれる。

こうした「身体が覚えていること」は、お茶に限らず、舞や武道、音楽にも共通するものだろう。世阿弥が『風姿花伝』に記したように、若さや勢いの「時分の花」に頼るのではなく、稽古を積み重ねて身体からにじみ出る「まことの花」こそ大切にすべき宝だと思う。五十歳を前にして、その言葉がしみじみと胸に響く。

帰り道、山道には葛の花がほころび、柿も色づき始めていた。日中はまだ夏の名残の強い日差しが照りつけていたが、ふと立ち止まれば、確かに季節は歩みを進めている。自然の営みが目に入ると、心にも余白が生まれ、忙しさで尖っていた気持ちがふっと緩んだ。

お元気な先生や社中の仲間との何気ないやりとりに心を通わせながら、このお茶の心を伝えていきたいと、しみじみ願うのであった。