朝まだき。
夫は弓矢と弓具を携え、道着姿で家を出ていった。彼にとっては、8年ぶりとなる弓道の試合の日だった。
けれど、彼の朝はいつもと変わらなかった。いつも道場へ稽古に行くときと同じように、静かに、てきぱきと支度を整えている。背には、長い時間を共にしてきた相棒のようにしっくりと収まる大きなリュックサック。中には、弓具が入っている。
「行ってきます」と軽く手を上げ、長い弓を肩に乗せる後ろ姿を見送り、私は工房に残って急ぎの仕事に取りかかっていた。仕事に集中しながらも、気持ちの一部は試合会場に向かっていた
しばらくすると、「一手(最初の2本)皆中した」とメールが届く。
しばらくすると、「4つ矢(4本の矢)皆中した。いま休憩中」とまたメールが入る。
ふふ、と声には出さずとも、胸の奥で静かに喜びが湧き上がった。そのたびに、私と娘は顔を見合わせ、「すごいね!さすがだね!」と小さな歓声を上げた。娘の楽しそうな声に、私も喜びが増す。
夕方になって、夫から電話があった。
「今食料品買ったところ。洗剤はまだ買えてない。これからYちゃん(娘)の浮き輪を買いに行ってくる」
朝、私が頼んでいた買い物リストを見ながら話しているようだった。
弓も、食料品や日用品の買い物も、すべてが生活の延長線上にある。そんな当たり前の日常が、なんだか可笑しくて、愛おしかった。
そしてようやく聞いた。「試合、どうだった?」
「あ、試合? 優勝したよ」
それは、洗剤の話の続きのような、あまりにさらりとした一言だった。けれど、その言葉の奥には確かな手応えが感じられた。何も飾らないその一言こそが、今日という日を物語っていた。
夫と私が出会ったのは、東京の弓道場だった。高校時代に弓道に打ち込んでいた私は、いつかまた弓を引きたいと思い続けていた。ようやく道場に通えるようになったとき、そこに彼はいた。
もっと上手くなりたい、そう思いながら稽古に励んだあの頃、道場にはいつも夫の姿があった。今は、仕事に追われて、なかなか道場にいけないでいる。
でも、夫の優勝の知らせを聞いたとき、あの時間の感覚がふいに蘇ってきた。的前にたち、矢をつがえるとき、そこにあるのはただただ呼吸だけが聞こえるような静かな時間。
私も、まだまだ未熟な弓を、もう一度丁寧に磨いていきたい。弓を引くあの静かな時間に、また戻ってみたい。そんな思いが心に浮かんだ。
夏の終わりを感じる。
風が少し涼しくなり、虫の声が静かに響くようになった。ときどき降っては止む、細かな雨。季節に少しずつ背中を押されるようだ。ふと、また弓道場に立ちたい、という私の心。
夫が「弓を引きたい」「練習に行こうかな」と言うことに、私はこれまで一度も反対したことがない。それは、私自身がよく知っているからだ。打ち込めるものがあることの尊さ、そして、それを続ける自由がどれほどの喜びになるかを。
夫も、同じように私の時間を大切にしてくれる。お茶や龍笛の稽古も、コラムを書く時間も。口を出すことなく、静かに応援してくれる。家事や娘の世話もなにも言わずに助けてくれる。
そうやって、お互いの「好き」を大切にしあえる日々。それぞれが、それぞれの道を歩める日々。
そんな当たり前の暮らしが、今ここにあることを、心から幸せに思う。
私の前にはいつも、初めて会った時のままの、彼のまっすぐな背中があるような気がしている。


