現代造佛所私記 No.149「麒麟の瞳」

薄暗い作業場に、蝉しぐれが降り注いでいる。
日差しの眩しい午後2時だというのに、ひぐらしまでが泣き始めて、時間の間隔を狂わせる。

ふと、突然、私の周りが無音となった。
吉田仏師が麒麟像の目に、金の虹彩を描き終えたときだった。

今回の「玉眼」は、仏像を作る時のような内側からの嵌入ではないが、基本的な仕様は同じだ。

麒麟の目に合わせて、コンタクトレンズのように加工した水晶の裏面に、細い筆で黒い瞳孔を描き、血走りを加え、さらに細かくした金箔を貼っていく。

「ふっ」と息を吹きかけると、余分な金粉が舞いあがり、きらきらと水晶の球に映り込んで、やがて静かに沈んでいった。

わずか直径数センチほどの水晶だが、その中に封じ込められた光と色は、神獣に確かな視線と意思を与える。

その一連の所作を見つめていると、あれほど耳を支配していた蝉の声さえも、静かに遠のいていった。

願いが叶ったとき、だるまに目を入れる習わしがあるように、瞳が入ることには何か特別な感慨を持つ。麒麟たちは、目が入った瞬間に「完成の始まり」を迎えた。

あぁ、いよいよだ。祈りを背負い、拝する者に語りかけるようになるのだな。私は2年前の、終戦の日を前にしたある日のことを思い出した。

この阿吽の麒麟像には、「争いのない、平和の世が続きますように」という願いが込められている。

2年前の夏、高知県遺族会の方々が麒麟像が祀られる薫的神社を訪れ、「ノミ入れ」の儀を行った。

父や祖父を戦争で亡くした方々。そしてその子や孫たち。山の上から燃え盛る高知の街を見ていた記憶を語る役員の方もいらした。私の大叔父も、戦地で命を落とした。

「どうか、あのような戦争が二度と起こりませんように。世界が平和でありますように」

皆で祈りを込めながら、麒麟像を筆で描いたケヤキに初めてノミを入れた、あの暑い日を、私は昨日のことのように思い出す。

運よく手に入った大きなケヤキは、本当に重く、硬かった。

吉田はひと彫りひと彫り、寒い季節も、暑い季節も、木と向き合いながら、阿吽一対の麒麟と、天をたなびく雲を彫り出していった。

仏像とは異なる、神獣の表現に悩む日々もあったが、2年の歳月を経て、ようやく奉安の日が近づいている。

この2年、世界は残念ながら「平和になった」とは言いがたい。けれど、それでも祈りは、かたちにして託すことができる。

この麒麟像に込められた願いは、人ならざる気配をたたえる神獣の姿となり、拝殿の上から訪れる人びとを静かに励まし、語りかけてくれるだろう。

祈りがあるかぎり、神は応え給う。
そして、人は希望を手放さない。

そのことを、今日、私は目撃したのだと思う。