【前回までのあらすじ】
人里離れた山の麓の仏像工房。
真新しい修理報告書に見つかった、ひとつのミス。
あの日の、それぞれの行動をたどりはじめる。
謝罪し、挽回しようとする事務補助の松田さん。
対話を進める事務長。
「──午後四時半から五時のあいだに、台座が半分になったんです」
その30分に、いったい何が起きたのか。
沈黙の中で、見えざる”引き金”をひいた者に導かれていく。
松田さんは続けた。
「えー、目薬を忘れていたんです。ドライアイの。画面が霞んで見えるから点眼しようと思って。一旦は冷蔵庫の前まで行ったんですけど……事務長に声かけしたらもう忘れちゃって。」
事務長が尋ねる。
「その後、もう一度離席された時、ファイルは開いたままでしたか?」
「はい、すぐ確認するつもりやったき……。事務長の面談始まっちょったき16:35ごろやおか。高木くんは何しよった?」
松田さんが僕に向き直る。
「えーっと、僕はまず手を洗って、前の日に事務長に言われていた本を運ぼうと思って、資料室へ行きました。」
「次の製作の分の資料作りだね。」
「はい。仏師さんが付箋をつけてくださってるところをコピーするのに、5冊くらい運んでました。あ、そうだ、運んでる時に、足元に急に黄色い塊が飛び出してくるのが見えて、ちょっとバランスを崩したんです。そしたら、トノちゃんが台所の方へダダーっと走り去るのが見えて。」
松田さんが手を挙げた。
「あ、それ私のせいかもしれん。 足元のフードボウルが空になっちょって、キャットフードを補充したがよ。あの子ら、カリカリのフードの音に反応するきね。」
事務長は、黙って聞いている。
「先に、ロイロがタタタっときて、次にトノコがダーっとえらい剣幕できたわ。高木くん、トノコとぶつかりそうになったがやね。」
「猫たち、お腹が空いてたんですね。」
「バタバタしよったら、気づいちゃれん時あるきね。ほいで、美味しそうに食べる猫たち見よったらちょっと気持ちも切り替わってね。机へ戻ってまずデータをpdfに書き出したと思う。」
松田さんの説明を聞きながら、行動の時系列が少しずつ整理されていく。
「あぁ、チェックをそこで忘れてしまったんですね。」
「あ!そうやね。一回違うことしたらすぐ忘れてしまう。もう年やね。」
「その後は入稿作業に?」
「確かすぐに印刷会社の入稿のページを開きました。どんな紙で、部数は、とか入れるやないですか。ちゃんと昔の履歴を確認しながら注文しようと思って、前の注文のデータを印刷しました。紙で見るのがたしかやろ?」
僕も思い出しながら言った。
「その時、僕はコピー機の横にいたんです。プリンタが動いて、松田さんが出力した分が出てきたので、机までお持ちしました。」
「ありがとうね。ほいで、時計見たら16:45過ぎちょって。17時には工房でて、買い物して娘のところへいかんといかんかったき、慌てました。印刷した紙に赤ペンで印をつけながら入力して、それでなんとか注文確定して……」
「なるほど、仕上がりのイメージ画像の確認はお忘れに……」
事務長の言葉の途中で、松田さんは無言で頭を抱えた。僕は、不思議に思い松田さんに訊ねた。
「でも、画像を直接触ったわけではないんですよね?」
そのとき、事務長が人差し指を口に当てて、小声で言った。
「──もしかしたら、まさに今、”犯人”が現場に戻ってきているかもしれません。」
松田さんと僕は顔を見合わせ、今この場にいない唯一の工房スタッフの顔を思い浮かべた。
(続く)