【前回までのあらすじ】
春休みに仏像工房「造佛所」で働きはじめた大学生・高木。ある日、完成した仏像修理報告書に画像ミスが見つかり、工房にちょっとした動揺が広がる。
お茶を淹れながら、事務長がつぶやいたのは──「チーズの穴ですよ」。
人間のミスは避けられないという前提に立つ「スイスチーズモデル」。重なる不備が偶然一直線に並ぶことで、事故は起きる。
ミスの背景にある“調整不足”に目を向けようという事務長に、高木と松田は耳を傾ける。
その時、事務長の膝上にいた猫トノコが突然、工房奥へと走り出した──。
「いたた……」
事務長が、膝を軽くさすりながら声を漏らした。猫のトノコは、踏ん張ると同時に爪を立てたらしい。
尻尾をピンと立てて急ぐトノコにロイロも加わって、奥に向かって駆けていく。
「……ちょうどいい。仏師が来ますね。」
間もなくヒノキの香りがふわりと漂ったかと思うと、その言葉通り、濃灰色の作務衣をまとった仏師が、「お疲れさまー」と土間に姿を見せた。
「お疲れさまです!」僕も松田さんも、反射的に立ち上がる。
「そういうのいいですよ。これ僕の?」
仏師さんは、事務長がすでに用意していたカップを指差した。そして、テーブルの上の報告書に目をやると、
「……おぉ、できたんですね。うんうん、上等上等。」
手に取ってパラパラとめくったかと思うとすぐに閉じ、深く腰掛けてお茶をすすった。松田さんはおずおずと中腰になって、件の25ページ目を開いて仏師さんに向けた。
「あの、気づかれませんでしたか?ここ、画像が途中で切れちゅうがです。だから修正シールを……」
「ん?ああ……ほんとだ。手間をかけますね。よろしくお願いします。」
黒猫のロイロが、仏師さんの肩にヒョイと乗った。膝にはいつの間にかトノコが陣取っている。事務長が仏師さんをチラと見てから報告書に目を落とし、
「今回のチーズの穴、シールでふさがりそうにありません。」
「うん?チーズか……何かちょっと食べたいな。」
仏師さんは小腹が空いているらしく、テーブルの上の菓子器や横の棚をキョロキョロと見回し、ロイロを肩に乗せたまま、トノコをそっと床に下ろし、再び席を立った。
「……そうは言っても、のんびりしよれませんよ。文化財課にも提出日を伝えてしもちゅうき…」
独り言のように呟きながら座り直す松田さんに続いて僕も腰を下ろした。
「あぁ、それはそうですね。結論から言うと、シール修正より”再入稿”がいい。ここ、みてください」
事務長が報告書を開き、指差した。ある大学教授の論考のパートだった。
「誤字が1箇所。それから、こことここ、これも不要だったね。」
「はは、シールだらけになるね」
仏師さんが、脇にある冷蔵庫を物色しながらかぶせた。
僕が松田さんとで見直した時は、問題ないと思っていた画像の中に、重複が3箇所。おそらく削除し忘れたダミーの写真が2枚。内容をよく見ていないと、発見できないミスだった。
「これ見てね、私も事務長として思ったんです。本当に工房として転換期にあるんだなって。だから、急いでデータ修正するよりも、あの日のことを振り返って『調整』したいんです。」
「調整……」
松田さんと僕は、おうむ返しするしかなかった。
「あの日のみんなの行動を、何をしていたか言ってもらえるかな?そうだね、高木くんが出勤したあたりから。覚えている範囲でいいから。」
事務長は、お茶を飲み干した。仏師さんは、冷蔵庫に適当な甘味がなかったらしく、椅子に戻ってきた。座るや否や、2匹の猫たちがぎゅうぎゅうと膝上で押し合いはじめた。
「えーと、僕が出勤したあたりというと、16:00過ぎですよね。玄関先で仏師さんがトノちゃんのブラッシングをしていて、今日は寒いですねー、桜も終わったのにねーなんて会話しました。」
仏師さんが、ウンウンとうなづく。
「中に入ると、事務長がちょうど報告書のデータを開いていました…よね?”君の図面がこんなふうに入ったよ、スタッフの中に名前もあるよ”って、画面を見せてくれたんです。
僕はすごく感動して、画面を覗き込みました。で、事務長がさらにスクロールして、最後の方にあった名前まで見せてくれたんです。……あ、そういえば、その時点では、まだ台座は切れていなかったと思います。」
「なるほど。続けて」
「自分の名前を見て、ちょっとはしゃいでいましたね。それで、そのあとは図面の作り方とか、事務長からアドバイスをいただいたりして……その時、松田さんがいらっしゃいました。」
「私は目薬をさそうと思って、冷蔵庫の前にいたんです。そしたら高木くん、コートも脱がずに話し込んじょったね。時計を見たら、16:20くらいやったと思う。それで、”お話のところごめんなさいね”って、二人に声かけました。えと、”事務長、時間じゃないですか”って言いました。海外のインターン希望者との面談が、16:30からやったき…」
「そうだったね。うっかりしていたよ。松田さんにはこれまで何度、時間を思い出させてもらったか。」
「事務長さんは目の前のことに夢中になると、うっかり忘れてしまうきね。」
松田さんは、やっと笑った。
でも、その笑顔の裏には、僕が知らなかった松田さんの日常があったのだった。
(続く)