現代造佛所私記No.120「半分の台座 (5)」

【前回までのあらすじ】
地方の文化に関心をもつ大学生・高木は、春休みに仏像制作・修復を行う「造佛所」で働き始める。人里離れた山の麓にある工房には、物静かな仏師、柔らかな語り口の事務長、気さくな事務補助の女性、そして2匹の猫。昔と今が同居する、不思議な空気が流れていた。

ある日、仏像修理報告書の完成を喜んだ直後、画像のミスが発覚する。動揺が広がる中、事務長はお茶を淹れながら、ぽつりとつぶやいた。

「チーズの穴ですよ。」

小さなほころびから何かを見つけること。高木は工房の中で、自分の「進む道」を少しずつ探しはじめる。

事務長は、もう一口お茶をすすったあと「ふう」と一呼吸して、静かに語り出した。

「チーズの穴、って聞いたことありませんか?」

僕はすぐさま首を振ったけれど、松田さんは「ええ」とうなずいた。

「スイスチーズモデル……ですね?」

「そう。航空業界や医療現場では有名な概念です。スイスチーズって、独特な見た目をしててね。チーズの塊にいくつも穴が開いているんです。人が関わるシステムには、このチーズみたいに“穴”がある。エラーがこの穴を掻い潜って事故を引き起こすわけですけど、穴の空いたスライスでも、いくつか重ねることで事故を防げる──そんな考え方です。」

僕は、以前バイトし始めたばかりの飲食店で失敗して、店長からひどく怒られた経験を思い出した。当時のモヤモヤが蘇ってくる。

「でもね、その『穴』が偶然にも一直線に並んでしまうことがある。すると、その穴から問題がすり抜けて、事故が発生してしまう。」

あぁ、そうだ……。あの時も、「自分だけが悪いわけじゃないのに」と、どこか納得できないまま背負いこんでいたんだった。ずっとくすぶっていた黒いモヤモヤが、心なしか僅かに晴れたようだった。

「今回のケースでいえば、いつもと異なるフローで入稿してしまったことは大きい穴でしたね。だけど、私は入稿前のフォローをするべきところを、別な業務を併行していて、時間的リソースがなかった。松田さんも疲れていましたよね。そういう一つ一つの“穴”を通り抜けてしまったんです。」

僕は、思わず前のめりになって聞いていた。松田さんは、深くうなずいた。

「ただね、このモデルも完璧じゃありません。何か起きてから、あとづけの分析にしか使われないこともあるんです。」

事務長は、カップをコトと静かに置いた。ひざの上のトノコがゴロゴロと喉を鳴らしている。

僕は、今度は1週間前のことを思い出していた。ポカポカする日が増えて自転車が楽しくなってきたのに、格別に冷える日があった。入稿は、そんな日に実行されたんだった。

南国の春だというのに、その日は冷え込んだ。仏師さんは玄関前で猫のブラッシングをしていたが、作務衣の上にダウンジャケットを羽織っていた。

事務長が続ける。

「だから、これが悪かった、誰が悪かった、って話だけにしてしまうと、事故の本質を見失います。単純なミスでも、いくつかの偶然と疲労、確認不足なんかが重なると、すり抜けてしまう。だから、なぜ今回は調整が追いつかなかったのかを見る。そういう文化や仕組みが大切なんです。」

事務長は、こういう時とても饒舌だ。松田さんは神妙な顔をしている。僕はこの事務長ターンの時間がとても好きだ。ミス発覚という事態ではあるけれど、高揚が抑えられないでいた。

その時、猫のトノコが、ふいにハッと顔を上げてピンと耳を立てた。かと思うと、ぐっと事務長の太ももへ踏み込み、勢いよく膝から飛び降り奥へ走り出した。

(続く)