事務長は、パタリと報告書を閉じて、ゆっくり深呼吸をしながら松田さんの方へ振り返った。
「お孫さん、ますます可愛くなっていらっしゃるでしょう」と微笑みながら、事務長は休憩スペースの椅子によっこらしょと掛けた。
「え?ええ、それはもう。」あと追う松田さんに、僕も続いた。
茶葉をガラスポットにサラサラと入れ、カチャカチャとカップを並べる事務長の手は澱みがない。突っ立ったままの僕たちをみて、にっこりと左手で椅子にかけるよう促した。
「そうそう松田さん、今度眼科はいつ受診されますか?」
「え、え…と再来月です。」事務長の前に腰掛ける松田さん。
「あ、高木くん、鉄瓶の湯をこちらへ。そうか…うーん、早めに眼科に行かれた方が良いかもしれませんねぇ。」
松田さんは、何か言いたそうな口元を、キュッと結んでうなづいた。
僕は火鉢の上でたぎる鉄瓶を慎重に運び、ガラスポットに湯を注いだ。白くて丸い湯気がいくつか現れ、スーッと細くのぼっては溶けた。
琥珀色の砂時計をひっくり返す事務長。その足元に、猫のトノコがすり寄ってきて、膝の上にひょいと飛び乗った。モゾモゾ足場を確認したかと思うと、香箱座りで落ち着き静かに喉を鳴らしている。
茶葉がゆっくりと開いていくのを見ながら、事務長は無言で二、三度うなづいた。ポットが赤褐色に染まっていく。
「あ、あの、そんなことより報告書ですけど、申し訳ありません。実は私、入稿の時に校正データをチェックするのを忘れていたんです。こんなことに…」
入稿時…1週間前だ。その日僕は何をしていただろうか?直接入稿業務には関わっていなかったけど、何やらせわしい日だったような気がする。
事務長は、「そうだったんですね。これね…」と言いかけて砂時計を眺めているので、なんとなく松田さんも僕も、サーっと落ちていく砂を眺めて沈黙してしまった。
「画像……切れてしまったところ、私が修正シールを作ります。多少画質は落ちますけど、修理前後の比較はできると思います。」
いつも朗らかな松田さんが、少し顔をこわばらせ、はっきりと事務長に提案した。僕はハッとして松田さんの横顔を思わず見てしまった。そして、
「僕もシール貼ります!」
気づけば、誰にいうでもなく、宣言していた。
ふっと目を細めた事務長は、4つのカップにコポコポとお茶を注いだ。どうやら仏師さんの分も淹れたらしい。砂時計は落ち切っていた。
「いえね。その必要はないんです。」
「えっ?」
松田さんと僕の声が重なると同時に、トノコがクァっとあくびをした。
「でも、このままじゃ、うちの品質が…。県の文化財課にも渡すんでしょう。工房の信頼にも関わります。」と松田さん。
「嬉しいな、そんなふうに考えてくださってるんですね。でもね、シールを貼るだけじゃ多分だめなんです。この報告書。」
松田さんも僕も、事務長の言葉を待った。
「チーズの穴ですよ。」
事務長は、カップを手に湯気をスーッと吸い込んだかと思うと、一口ちびりと口に含んだ。
(続く)