3週間ほど前になろうか。
古いタオルを雑巾に下ろそうと、デスクに持ってきた。いつでも縫えるようにと、裁縫箱も出してきた。
しかし、なかなか手がつけられず、タオルと裁縫箱はだんだんと隅に押しやられていった。
とにかくここ数ヶ月の私は、朝から晩までパソコンに向かい、ひたすらキーボードを鳴らしている。目の端に、きちんと畳まれて縫われるのを待っているタオルが健気だった。
私はなぜか、裁縫がたまらなく恋しくなっていた。しかも、「ミシン」ではなく、「手縫い」をしようと考えていた。
「針仕事でしか得られない養分。そんなものがあるのだ」
キーボードを叩きすぎた両手が、そう言わんばかりに疼いた。
思えば、お茶の師匠も刺繍が趣味で、折にふれて手作りの刺繍入りの布巾を弟子たちに贈ってくださる。「肩も凝るだろうに、なぜこんなにたくさん…」と以前は不思議に思っていたが、いまならわかる気がする。あれは、針仕事の栄養があったからだ。
先週は、とにかく疲労困憊だった。大仕事を終え、ようやく回復してきた体が背中を押した。昨日、20分ほどで一気に二枚を縫い上げた。
極限まで「手が飢えた」その感覚。ミシンではなく、どうしても“手で”縫いたかった。じかに布と糸に触れ、何かを作り出したかったのだと思う。
針が布を貫き、糸がスーッと通っていく。その「ひと刺し」の静かで軽やかな手応え。そこに、深い喜びがある。
また、縫い代を裏地を返したとき、「こんにちは」と端正な表地が顔を出す、あの小さな高揚感も見逃せない。
目が悪くなってからは少し遠ざかっていたけれど、そういえば私はずっと縫うのが好きだった。
上手ではないけれど、端切れがひと続きになって形を成していく、その過程が子供心に嬉しかった。
結婚してからも、吉田と自分の作務衣、娘のワンピースやシュシュ、バブーシュカ、猫の首輪。家族の好みの布とブレードで仕立てたクッションやランチョンマット……ふり返れば、案外いろいろ縫ってきたものだ。
不完全でも、手製のものが暮らしに増えていくだけでなんだかホッとする。
手を動かす喜びについては、料理も、キーボードを打つ時間も好きだけれど、針と糸はまた格別だ。
仕上がりを気にせずザクザク縫える雑巾でも、その滋養はじゅうぶんに味わえる。
人は Homo sapiens(知恵ある人)である前に、Homo faber(作る人)なのだろう。
さっきまでただの布だったものが、針と糸を通すことで、何かの役割を帯び、私たちに寄り添いはじめる。
それはとても小さな奇跡だ。心の栄養にならずして、何になるだろう。