14時46分。「カタカタカタ…」
(あぁ、いつもの地震かな)
そう思ったのも束の間、揺れがぐんと大きくなり、デスク脇の荷物の山がズサーッと崩れた。
どこからか聞こえる悲鳴。何かが割れる音。八方からの犬の鳴き声。
(これはやばい)
揺れが終わらない。いつもと違う様子に、とっさに玄関とベランダの扉を開け、机の下に潜り込んだ。
揺れがおさまると慌ててテレビをつけた。そこには、目を、耳を疑うような光景があった。
ほどなくして、海外にいる上司から「関西のもう一つの事務所に数ヶ月滞在するように」と指示が出た。
吉田と出会う数年前のこと、当時は東京都にいた。
造佛所とは直接関係ないが、忘れられない1日、忘れてはいけない1日として記しておきたい。
「大変なことが起こった。」身の回りのものをとりに一旦帰宅することになった。
電車は止まっており、帰宅を急ぐ人で線路沿いの歩道が埋め尽くされていた。異常な光景だったが、混乱もなくみんな粛々と歩いていた。
家の前で大家さんが迎えてくれた。女性の一人暮らしを案じてくださっていたのだろう。
「しばらく関西の事務所にいくことになりました」「そう…気をつけてね!」
いつ戻って来れるだろう?そんなことを考えながら、スーツケースに入るだけの荷物を詰め込み新幹線へ飛び乗った。
東北にいるお客様や取引先の会社の方々が心配で心配でならなかった。東京にいて避難を受け入れたり、物資を手配するなど、何か助けになれることがあるんじゃないかと葛藤していた。
関西の事務所で寝泊まりし、合間を縫っては情報を追った。あまりのことに、嗚咽が止まらなくなったことが何度も何度もあった。
2ヶ月ほど経って、東京へ戻っただろうか。
今気づいたが、3月11日以降の記憶がほとんどない。スマホのカメラロールも、2011年3月がすっぽり抜けている。動揺していたのだと思う。
吉田は世田谷区の仏像修理工房で、小休止の時間だったようだ。多数の仏像を預かっている工房だが、どのお像も破損することもなく無事だったらしい。
あの日以来、「やり残したことはないか?」と何度も振り返った。やっておきたいことの一つが「弓道復帰」だった。それが吉田との出会いにつながる。
14年の月日が流れ、その間にも数えきれないほどの災害や事件が起こった。
昨年は能登半島へ仏像の応急処置にも携わり、被災地の状況を目の当たりにした。南海トラフ地震のリスクが高い高知県にいて、地震のことを考えない日はない。
人の世にいられる短い時間の中で、私に一体何ができるだろう。
もがくばかりの人生だが、どうか誰かを益することができるものであるようにと切に願う。
(アイキャッチは、故郷の夕焼け)