現代造佛所私記No.109「真善美」

前日までの雨風が嘘のように、晴れの国・岡山の日差しは眩しかった。

富山での学会発表を終え、京都の福成寺での坐禅を経ての四国への帰路。

四国へ入る前に、どうしても寄りたい場所があった。3年前に吉田が注文していた竹弓が完成したとの連絡を受け、旧知の弓師・加藤さんのもとを訪れたのだ。

岡山市中心地から少し離れた丘の上、ナビを頼りにたどり着いた加藤弓工店は、変わらず整然としていていた。

「わぁ!カンナだ!」
大小の鉋がずらりと並ぶ壁を見上げ、娘が声を上げる。職人の道具を目にするだけで、何か嬉しいのだろう。彼女は「竹弓の育て方」と書かれたレジュメを手に取って、漢字に苦戦しながらも音読してはゲラゲラと笑っていた。

「それで、弓は……」
吉田がそう問うと、加藤さんは竹弓の群れの中から一張の弓を差し出した。まだ誰の手にも馴染んでいない、光るような新弓。

手に取る吉田の目が輝く。

「肩入れしてもいいですか」まるで少年のような初々しい興奮をたたえ、加藤さんと弓に問いかける。

「お父ちゃんとおんなじ足袋はいてるねぇ。髪も黒くて短いし、お髭も生えてるし、そっくりだねぇ」

並んで話し込む職人二人を眺め、娘が独り言を言うのがおかしかった。

加藤さんは、素材や手入れ、弓の個性や「育て方」について丁寧に語ってくださった。職人同士の会話に、私も静かに耳を傾ける。

「中(あ)たりそうな”見た目”の弓が、好まれるんですよ。実際のところどうかは、別として。」

加藤さんの言葉にハッとした。

見た目が良ければ、売れる。質の高さよりも、わかりやすい「映え」が先行する現実。弓の世界だけではない。仏像でも、PRの世界でも、似たような場面は少なくない。

もちろん、本質が極まったところに自然と宿る美しさはある。けれど、上げ底の美、誇張された外見、表層だけの演出。それらが「本物」のように扱われてしまうとき、職人は、私たち伝統に携わる者は、存在意義を問われる。

PRの現場でも、認知を最大化するための、言葉の取捨選択はある。でも、むやみに閲覧数を上げるためだけの発信はしない。実際に触れたときにがっかりさせてしまうのは、誠実ではないからだ。だから、お客さまには、「まず品質、その上でPR」ということは最初にお伝えしている。

加藤さんの弓から感じたのは、実直な研究の土台に支えられた静かな矜持。そこには確かに「真善美」が通っていた。

ものを作るということ。
それを伝えるということ。
どちらも、本質から目を逸らさずにいたい。

その決意を、弓師の工房で新たにした、初夏の一日だった。