現代造佛所私記No.102「文化財と物語 (2)」

「文化財を守る」。

ただ歴史をなぞる、知識を得るためだけなら、オリジナルを守る必要もなく、レプリカや映像、文字情報で事足りるのかもしれない。そうして、淘汰されたものは数知れない。

だけど、オリジナルを目の前にした時、あるいはこの世のどこかにオリジナルがあるという事実の前でだけ開く扉がある。

その感覚は、「なぜ文化財は守らないといけないのか?」と考える人にも、多少なりとも共感していただけるのではないだろうか。

かつて生きた人々が、どんな世界を見て、何を願い、どんな風に手を動かしていたのか。

今の私たちが身体感覚として感じ取るための、それぞれの文化財が持つ「固有の扉」だ。

文化財を守るということは、オリジナルだけが持つ「固有の扉」を守ることだと私は思っている。

文化財には、異なる時代の社会の価値観、信仰の形、地域の暮らしぶり、技術の粋が凝縮されている。そのオリジナルのもつ力によって、今を生きる私たちの精神や想像力が耕されることがある。

そんな体験をすると、大切な家族や友人に分かち合うような感覚で、「未来の人にもぜひ、この扉を開けてほしい」と願うようになる。

少なくとも私にとっては、「文化財は守らなければならない」という義務感よりも、「こんなに素晴らしいものだから、未来の人にもぜひ触れてほしい」という気持ちが先に立つ。

例えば仏像にも、膨大な情報が宿っている。信仰の対象として現在進行形で機能する一方で、雄弁に歴史を語りつつ、現代の技術を駆使しても解き明かせぬ未知なる存在として、私たちと共に今を「生きている」。

私たちは、いずれ数十年からせいぜい100年しか生きられぬ存在だ。未来の家族友人たちと直接話すことはできない。その代わりにこの扉を残し、扉の向こうを見て、多くのことを感じ取ってほしいと願う。

それはやがて、もっと遠くのより良い未来へ飛び立つための翼ともなるだろう。

(3)へ続く