現代造佛所私記No.100「”書かなかったこと”を思う」

1000日毎日執筆すると誓って 100日目を迎えた。スタートした頃は「100日目はさぞ感慨深いだろう」と漠然と思っていたが、いざその日が来てみるとはまったく違った。

その当日である今日は、学会ポスターのデータ入稿締切日だった。

急な別件対応、グラフィックソフトのフリーズ、画像不備、印刷が間に合わないことが判明するなど、まるで試されているかのようにトラブルが続いた。

一分一秒を争う締切直前、最終的に印刷会社を変更して無事に入稿を終えた。家族は皆寝静まり、感慨に浸る余裕もなかった。

けれど、もし今日が静かな一日だったとしても、たぶん特別な「達成感」は無かったのではないかと思う。それほどに「書くこと」が私の日常に根を張っていた。

言葉を削ったり、整えたりする中で気づいたことがある。書かなかったことの行方だ。

書いたことは極々一部のことに過ぎない。その一方で膨大な「書かなかったこと」がある。気づいたのは、そんな多くの出来事が、「コラムの背景」として広く広く心の中で景色を作っていることだった。

「書かなかったこと」は棄てられたのではなく、豊かな背景として毎日を繋ぎ心象風景を豊かにしている。言葉にせず、ほとんど思い出さない、「書かなかったこと」。

その健全な忘却は、書いたことを包むふかふかの土壌となって、人生を育んでいる。それに気づけたのは、100日続けたおかげだろう。

さて、先週のコラムを振り返ってみる。

昨日、四国は梅雨入りした。

九州で線状降水帯が発生したというニュースに、にわかに緊張する。どうか、大きな被害なく、新たな季節を全ての人が無事に通り過ぎていけるようにと祈った。

書いたこと、書かなかったこと、その両方を抱きしめて、明日からまた書き続けようと思う。

一番読まれていたのは、現代造佛所私記No.98「伝えること」